『ゾンビ・ヘッズ』を見て、"主人公=ゾンビ"というゾンビ映画の最新のトレンドはロメロからの歴史的必然だ!と、声を大にして叫びたい件。

タイトルでわかるとは思いますが、僕はゾンビ映画が大好きです!!

以前、女の子から夜に「今なにしてるの?」とメールがきたので、「ゾンビ映画見てる!^^」などと無邪気に返信したら、それ以降メールが返ってこなくなりました。もしもそのとき「アダルトサイトを見てたのなら、僕も嘘ぐらいついたはずです。流石に僕も「AV見てる!^^」などは返信したりしません。恥ずかしいですから。
ゾンビぐらいはいいじゃないか。僕は正直に答えただけ、それの何が悪いのか。しかし、その油断、その甘えがこのような事故や悲劇をまねくのです。ホラー映画でもこういうアホなやつは絶対死ぬのです。むしろ、殺して下さいと前フリしているようなもの。いったい僕は数多くのホラー映画を見て何を学んできたのでしょうか、まったく。
やはり、「ゾ」のつく言葉は言ってはいけないのです。特に、女の子の前では!

先日も、『ショーン・オブ・ザ・デッド』が好きだという女の子とゾンビの話題で盛り上がり、ついうっかり「僕もゾンビになりたい!」などと口ばしってしまいました。その瞬間、その女の子はポカンとして、「この人、変・・・」という目で僕のことを見てきました。ちょっと趣味があったからといって、油断してはいけないのです。
これがハニートラップというやつか。簡単に引っかかってやったぜ。共通の趣味でお互いの距離を縮めておいてから、突き放す。よりダメージを大きくするために、持ち上げておいて落すという法則。数年前に子供先生(?)も言っていましたね。
恋愛というホラー映画で生き残るためには、油断はダメ、絶対!です。

以上の経験から思うにゾンビと恋愛は相性が悪いのです。というか僕は勝手にそう思っていました。

しかし、『ゾンビ・ヘッズ』はゾンビが主人公の青春ラブ・ロード・ムービーだったのです!
僕は感動しました。ゾンビでも恋愛していいのだと。ゾンビになっても思いを伝えることができるのだと。
腕がとれながらもよくがんばった。感動した!


というわけで、『ゾンビ・ヘッズ』で感動しながら思いついた、『ドーン・オブ・ザ・デッド』から最近のゾンビ映画までの歴史的変遷(仮説)をゾンビへの愛をこめて真面目に語りたいと思います。ゾンビだって彼女に気持ちを伝えているんだ!僕だってみなさまにゾンビ映画の素晴らしさをお伝えしたい!!
結果がどうとかじゃない、やると決めることが大事なんだ!!
と、ゾンビに励まされて、なんだかよくわからない使命感とやる気が湧いてきてしましたので。

ゾンビ映画変遷史1:『ドーン・オブ・ザ・デッド

ゾンビ映画の巨匠ジョージ・A・ロメロの『ドーン・オブ・ザ・デッド』(1978年 邦題『ゾンビ』)は直訳すると、「死者の夜明け」という意味ですが、これはまさしく"ゾンビ映画の夜明け"となった作品であり、この映画によってゾンビ映画がただのホラー映画を越える契機となった作品と言えます。

f:id:kontonwa:20140305031051j:plain:w500ドーン・オブ・ザ・デッド

この映画が傑作と称賛されるのは、ゾンビというモンスターが登場する低予算のホラー映画でありながら、社会風刺映画としてよくできていたからです。
ドーン・オブ・ザ・デッド』ではショッピングモールに群がる消費者をゾンビに例えたのです。この映画ではゾンビとは惰性で生きている人々であり、つまり、目的もなくダラダラとショッピングモールで時間をつぶしている大衆消費者を皮肉ってゾンビにしているのです。おそらく、ロメロが『ドーン・オブ・ザ・デッド』をつくった1970年代後半は今現在のような大衆消費社会ができあがった時代であり、その大衆消費者をロメロは驚きと警鐘をこめてゾンビにしたのでしょう。ダラダラとショッピッグモールをうろつく人々は本当に"生きて"いるのかと。
そして、主人公たちもそのショッピングモール内にバリケードを作って立て籠り、ゾンビと戦いながらも不自由しない生活を満喫していますが、最終的にそのショッピングモールから脱出します。快適なショッピングモールという生活から、不確実な新たな世界へと飛び出していくのです。
この映画においてゾンビ=敵であり、主人公たちはそのゾンビたちのショッピングモールから自由を求めて飛び立つのです。

しかし、ロメロが皮肉った大衆消費社会こそ、まさに今の我々が生きている世界なのです。大衆消費者である我々とは、つまり、ロメロが皮肉ったゾンビであるのです。そしてその必然として、大衆消費社会の中で育った世代の映画監督は「我々=主人公=ゾンビ」という着想に行き着くはずなのです。

ゾンビ映画変遷史2:『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ゾンビーノ』

その記念すべきゾンビ映画界におけるマスターピースとして僕は『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)を評価したいと思います。

f:id:kontonwa:20140305030654j:plain:w500ショーン・オブ・ザ・デッド

この映画はコメディ・ゾンビ映画として認識されていますが、ロメロのドーンオブザデッドの構造を捉えた上でアイロニックに逆転させたことこそ、この映画のコメディの核心であると主張したい。『ショーン・オブ・ザ・デッド』は直訳すれば、"死者のショーン"という意味であり、ショーン君はこの映画の主人公です。なぜショーン君は死者なのか。それは、彼が完全に惰性で生きている人間だからです。やりたくもない仕事をダラダラやり、毎晩パブに行ってダラダラすごしているからです(この映画はイギリスの話なのでパブが舞台)。そして、彼も仲間とパブに立て籠もってゾンビと戦うのですが、彼の親友がゾンビに噛まれて感染してしまいます。そして、その後軍隊が介入し事態は収束し、ゾンビの攻撃性を抑える首輪も発明され、人とゾンビの共存できる社会が訪れます。
この映画の素晴らしいところは、この親友がゾンビになった後もショーン君と一緒に暮らしていることです。その親友ゾンビは鎖でつながれてゲームをしていますが、その親友は人間の頃からニートでゲームばかりやっているヤツだったので、ゾンビになっても大して変わりがないのです。
この映画において、親友=ゾンビ≒主人公であり、主人公も限りなくゾンビのような存在ですが、まだ、ゾンビ=友達という構図なのです。しかし、これはゾンビと主人公(=観客)の境界線を曖昧にし、両者を近づける大きな一歩であったと評価できます。

ちなみに、『ゾンビーノ』(2007年)という映画がありますが、その中ではゾンビ=家族の一員です。
f:id:kontonwa:20140305031653j:plain(ゾンビーノ)

ゾンビ映画変遷史3:『ゾンビ・ヘッズ』

その最後の境界線を超えたのが、ここ最近の『ゾンビ・ヘッズ』に代表される、主人公=ゾンビの構造をもったゾンビ映画であると言えます。

f:id:kontonwa:20140305032213j:plain:w500(ゾンビ・ヘッズ)

つまり、僕たちが最近目にするようになった、主人公=ゾンビものはゾンビ映画界の思想的最前線であり、ロメロから数十年を経てゾンビはここまで進化したのです!


整理すると、こんな感じです!

1:大衆社会消費者がゾンビな映画『ドーン・オブ・ザ・デッド


  大衆社会消費者=我々という認識が生まれて・・・


2:友人がゾンビな映画『ショーン・オブ・ザ・デッド
  ↓
3:家族がゾンビな映画『ゾンビーノ』
  ↓ 
4:主人公がゾンビな映画『ゾンビ・ヘッズ』


となる。 

そして、その『ゾンビ・ヘッズ』に僕は感動しました。共感しました。
僕もどおせゾンビだよ!! 
でも、ゾンビだっていいじゃないか!!

では最後に、僕の大好きなThe Pretty Recklessのテイラー・モンセンが歌う"Zombie"を聴きながら・・・

さよなら、さよなら、さよなら


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